母が、「透析末期です」と主治医に言われたのが4年ほど前の事だったと思います。
透析末期って何??
その言葉を聞いたのは父だったので、まだ離れて暮らしていたし、検索してもそんな言葉が出てこず、よくわからないまま過ごしていました。
ただ、父の様子から、母はもう長く透析ができず予後が見えてきている状況なのではないかと感じました。
(そこで主治医に電話などして確認しなかったのは私の失敗だったなと今も思いますが、後悔しても仕方ない・・・)
首の横から入れたカテーテルは、半年ほどで詰まってしまうかもしれないと言われたそうです。
カテーテルが詰まってしまったら?と父に聞くと、手術してまた他の場所へカテーテルを入れることになるとの事でした。
結局母の留置カテーテルは1年半ほど詰まることも無く、透析は続きました。
やがてカテーテルが詰まり気味になっているからと、入院して手術、カテーテルの挿入部位は右胸からまた左胸に変わりました。
ですが母は認知症。入院すると不安は強くなり拘束もされ、かなりの興奮状態で退院しました。たった4日間の入院でしたが、帰宅すると夜中に「助けて!縛らないで!!看護婦さん!!」と大声で叫びます。訪問介護の介護士さんが身体を拭きにきてくれていたのですが、それまで穏やかだったのに、退院後はちょっとからだに触れるだけで嫌がり、介護士さんを叩いたりするようになってしまいました。
食べるものもどろどろのものしか食べられなくなっていました。
そこから妹がめちゃめちゃ頑張ってくれて、なんと母は3か月後には普通のご飯が自分で箸をもって食べられるようにまでなりました。
あれからもう1年半経ちます。この夏、私が母の介護をしているときに、車いすの足台を母が自分で足で下ろそうとしてぶつけ、怪我をしてしまいました。腫れた足を見て、夜間救急で病院へ連れて行ったもののレントゲンで骨に異常がないことがわかると、透析病院で経過を見てくださいと帰されてしまいました。え!?こんなに腫れてるのに!!と思うほどパンパンに足は腫れあがっていました。仕方なく自宅で冷やしながら足を高くして翌日透析病院へ。けれど、足の処置は特にされることは無く、それから1週間ほど経った頃、足の血種が破れ出血。幸いデイサービスの移動の車の中だったので看護師さんもおり、すぐに救急車を呼んでくれました。ところが、そこでもまた透析しているなら経過は透析病院で。。。と。そこから母はどんどん弱っていきました。処置の度に痛い思いもし、理解できないために暴れるため医療者も仕方なく押さえつけ。。。そんな感じだったと思います。
認知症ってホント辛い。
血液検査の結果、炎症を示す数値が高くなり、透析後に抗生剤の点滴をするようになり、食事もまったく食べられなくなり、栄養の点滴もするようになり。。。
そんな状態が10日ほど続き、もうダメなのかな。。。このまま弱っていくのかな。。。とも思ったけれど、なんと母、元気になりました。
ところが、元気になった母は、もう誰かに触られることを異常に嫌がるようになり、昼夜逆転もし夜は寝るまでに数時間かかる上にやっと寝たと思っても朝までに何度も大騒ぎするように。。。
起きているときも、以前はテレビを見るなど穏やかに過ごせていたのに、5秒に一回は「寝るよ!!」「痛い」「痒い」「薬」などなど叫ぶように。。。
あの時は本当に本当に大変だったな。。。
父が入退院を繰り返すようになり、これからの事を考えて母の透析病院も父と同じ病院に変更することにしました。以前の透析病院は精神科が無くて、母の傷の処置も外科の先生がしてくれていましたが、新しい病院では形成外科があり、母の足の傷はみるみる良くなっていきました。また何よりも良かったのは精神科もあったことで。透析の時に騒いでしまうこともあるし、私たち介護者が全く眠れない事も考えて、すぐに精神科の先生が介入してくれて薬の調節をしてくれるようになりました。
今、母はまだ精神科薬の調整中ですが、騒ぐことは無くなりました。一日のほとんどを寝て過ごしています。ご飯は以前のように普通に箸を持って食べることはできないけれど、声掛けすると口を開けて食べてくれるようになったし、いらないときは「ごちそうさま」というし、ぶどうとリンゴどっちがいい?と聞くと「ぶどう」と答えられるし。
この前の日曜日は、ドライブ行こうか?と目を閉じている母に話しかけると、「行く!天気いい?」と。「いい天気だよ、外見てみ?」と言うと、目を開けて、ベッドの横の大きな窓から外を見て「いい天気だね、ドライブ行こう」と意志をちゃんと伝えることができるようになりました。
母の介護はまだまだ続くかもしれません。けれど今挿入されているカテーテルがいつ使えなくなるのか。。。その時にどうなるのか。。。
今度はちゃんと新しい主治医に、高齢の父ではなく私や妹に、説明をしてもらおうと思っています。
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