22歳の時、大学で仲の良かった友だちが、贈ってくれた詩がある。
私は、3歳上のその友だちを尊敬していて、以来、何かある度に、この詩を読み返していた。
日々をこのような気持ちで過ごしたいと思っていた。
けれど、数年前に仕事を再開して、日々の忙しさの中で、すっかりこの詩を読み返すことがなくなっていた。
そして、息子が統合失調症を発症したとき、この詩は、私には厳しすぎた。
この詩は、私を支えてくれなかったし、辛くなるだけだったから、思い返しもしなかった。
茨木のりこさんの詩
《 自分の感受性くらい 》
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
とても素晴らしい詩なんだけど、やっぱり、まだキツイなー
この詩が好きだったなんて、昔の私は、強かったんだな…(^_^;)
また近い将来、この詩を読み返しながら過ごしていけるかどうか…。
今の気持ちを表すなら、
いいじゃん、いいじゃん、大丈夫♪
なんとかなるさ、なんとでもなるさ
生きてさえいたら、なんでもあり
そのうち、やりたい事もみつかるさ
みつからなけりゃ、寝て過ごせばいいのさ
慌てない、焦らない、
なんとかなるさー
って感じ•*¨*•.¸¸♪
コメント
初めましてKeiと申します。
統合失調症当事者です。
茨木のり子の「自分の感受性ぐらい」は私も好きで、詩集も持っています。
確かに茨木のり子が投げかける言葉は厳しいのですが、戦争体験者である彼女は自身にそう言わざろうえなかったのではなかったのかな?と個人的には思います。
私が統合失調症発症してから好きになった詩は吉野弘の「生命は」です。
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
Keiさん、
「生命は」
素晴らしい詩ですね~
以前は好きだった「自分の感受性くらい」ですが、年齢や経験、その時の状況で、同じものでも感じ方は変わるものですね。
「生命は」
この詩は、とても心地いいですね。
世界がゆるやかに構成されている
私も虻や風かもしれないという表現から、生きることの意味が優しく伝わってきます。
昨年、100歳を超えて亡くなった祖母が、「おかげさまで」というのが口ぐせでしたが、通じるものがあるなとも思いました。
Keiさん、素敵な詩を紹介していただき、ホントにありがとうございました。
今、Keiさんは、確実に私の風でした。
これからも、読み返したいと思います。
(*Ü*)
森の民さんのブログを通じて、いろんな方の優しい気持ちに触れ、励まされています。
誰しもが欠如がある。本当にそうですよね。でも、誰しもが誰かの欠如を埋める大事な役目になり得る可能性を秘めている。
Keiさん、森の民さん、ありがとうございました。
さるるさん、
このブログを書き始める時に、迷いました。
当事者の方が、親の気持ちを知ったら、悲しまないかなとか。
辛く苦しんでいる時は、他人の病気の様子を知ったところで、問題を解決できるわけではないし。
賛否両論だろうし。
でも、私のブログにコメントしてくださる方のおかげで、私自身が救われている事に気付かされます。
コメントがなくても、大勢の方が訪れてくださっているようです。
優しく暖かい風になれているのか、強風で木々をなぎ倒してしまっているのか、どちらの風かは分かりませんが、何かしら、影響しあっているのかもしれません。
ありがたい事です。
私の方こそ、みなさんに感謝しています。
これからも、ほそぼそと、続けていきますね~
さるるさん、いつもコメントありがとうございます。