当事者という言葉がある。
これはなにかの物事に直接関係している人の事を表す言葉だけれど。精神疾患の患者さんの事も当事者という。
初めて聞いた時はちょっと違和感があった。当事者と聞くと事件や事故の当事者というイメージたったから。
でも、そういった意味合いの当事者と同じで、物事に直接関係している人=病気に直接関係している人という意味で、なんとなく自分の違和感を抑え込んだ気がする。
やがて、当事者、家族、という分類に慣れてしまった。
息子が当事者となり、数年して「家族も当事者だよね」と言われた。
家族は、精神疾患の病気を持つ人と直接関係している当事者ということになるだろうか。
実際家族は真っ暗闇に落ちたりする。不安、孤独、孤立、不眠を経験したりする。暴言や暴力の対象となる方もいるし、それまで経験したことの無い出来事を体験したりする。
精神疾患の家族という当事者、と言ういい方にも若干の違和感を覚えたけれど、そう思ってもらえたら救われる!と思った。そうだよね、私たちも助けて欲しいもん!
それでも、「当事者」と「家族という当事者」には違いがあるように思う。
家族という当事者は、当事者がいなければ成立しないのだ。当事者から距離を取り離れて暮らしている家族は、家族だからといって当事者とはいえない??一緒に暮らしていても、当事者の病気に寄り添ったり向き合ったりしていない家族は?
「家族という当事者」と「家族という当事者ではない家族」の境目はなんだろう?物理的距離?精神的距離?
今現在の、私の思うその違いは、「支援を必要としているかどうか」
「辛いんです、大変なんです、誰か助けて」と支援の手が必要な人たちは、家族かどうかに関わらず「その問題の当事者」かもしれない。
そして、同じ事象が起きた時に、「助けて」と思う人もいれば「ん?平気!」と思う人もいる。
精神疾患の当事者が、病気がある限り当事者性があるのに対し、家族という当事者は、物理的にも精神的にも支援を必要としない状態となった時に、当事者ではなくなる?
私は最近、家族という当事者だという気持ちが薄くなっている。息子の病気は相変わらずで、幻聴やフラッシュバックに苦しんでいるけれど。症状が強いと言葉が荒くなったりもするけれど。
以前は「誰か助けてよ、私を支援してよ!」と思っていたけれど。最近はそう思う事がほとんどない。昔のようにずっと助けを求めている状態ではなくなった。もちろんたまに悩んだりするけど。。。
家族という当事者は、(精神疾患の)当事者に変化がなくても、当事者性は薄れる。
私は専門家からの直接的な支援を受けたことがないけれど、私の心が今のように軽くなっていったのはなぜだろう。
私のこのブログを読み返せばヒントがあるのか?どこかでまた考えたいなと思う。
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