昔々、とても若い頃、幸福感、充足感のその先を垣間見たことがある。一瞬だったけど。
またあの域にたどりつきたい!と思っているんだけど、多分そう願っただけじゃそこへは行けない。
あの頃の自分がどんなだったかを考えてみるけど、生活的には普通の貧乏学生で友だちもそこそこで、周りから見たらどうと言う事のない生活だったように思う。
そんな中で、どうして私はそう感じたのか?
この所、色んな方々の話を聞いてヒントをもらった。
まずは、、、あの頃私が出会った詩
茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」
“昔、好きだった詩”
↑ここに書いてあった。
この詩に出会い、芯が定まったというか、覚悟ができたというか。それまでと表面的には何も変わらなかったと思うんだけど、自分のそれまでの暮らし、両親の事、育ち、環境、辛かったことも全て、なにもかも、全部自分の運命であり責任だと思うようになった。
そしたらね、自分の身体も心も、全ては自分のものだとおもった。過去も現在も未来も、全て自分のもの。何があっても過去も含めて自分のもの。
それまでの全てを受け入れたのだと思う。
世界で、自分はたったひとりだという幸せな孤独感と満足感。生まれる時と死ぬときはひとり。ひとりで来て生きて行く。長い長い地球の歴史とこれからも続く地球の動きに思いを巡らせ、流れる時間の中で、自分が空気のように、水滴のひとつのようにちっぽけな存在であると感じ、だったら何をしたって大して地球に影響ないじゃんという幸せな無力感と、とはいえせっかく何かしらの些細な偶然でこの時代に生まれた自分の魂を大切にするために、一生懸命に生きた方がいいなという気持ち。自分の魂を入れて頂いているこの身体も大切にした方がいいな。
そんな風に色々と考えるようになった。
それからの私は、自分の責任が持てる範囲で、相手を傷つけない範囲で、やりたいことをやり言いたい事を言うようになったと思う。失敗したってどうせ自分の問題。大したことは無い。
そんな事ばかり考えて、周りの人に対しても自分なりに絶対に誠実でいようと行動していたら、あの日、秋なのにぽかぽかと暖かいあの日、私は一瞬、幸福感のその先を垣間見たのだと思う。
なんだか、妄想?幻視?みたいな体感?
その時の事は過去のブログでも書いてあったか。
“おてんとうさまのその先”
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