川崎の事件、練馬区の事件、色んな考えや批判はあるだろうと思う。
私はというと、川崎の事件では、その加害者が幼い頃からどんな気持ちで過ごしてきたのかを考えて悲しくなってしまう。
彼の育ちの中に、なんらかの支援の手はなかったのか。それは福祉的な社会資源というのでなく、ただのお節介な人の存在もなかったのか。
では、私の周りに同じような環境の子がいた時に、私は声をかけられるだろうか。
「どうした~?」「大丈夫~?」「何かあったらいつでもおばちゃんちに来ていいんだよ~」 そう言えるだろうか。
被害にあわれた方々、子どもたちにはなんの責任もなく、ただただ巻き込まれた方々が少しでも早く傷が癒えるよう祈るしかないのだけれど。
そして練馬区の事件では、息子を手にかけなければならないほどの気持ちに追い込まれてしまう父親を責める気持ちになれないのだけれど。亡くなった息子の方も、なぜそのような行動をとってしまっていたのか、そこに実はなんらかの治療によって気持ちを整えられるものはなかったのか。
なんでもかんでも病気で片付けられるものではないかもしれないけれど、今は医学が進み解明されてきている。年齢が高い人の方が、育て方や精神論に重きを置き、それだけではどうにも出来ないものがあることを知らないかもしれない。
どちらにしても、答えの見えない、誰も責めることはできない事件だと思う。
もしも誰かが罰を受けなければならないなら、この国の社会と日本人の長所であり短所である性質が、このような事件を引き起こしてしまったのではないかと、そう思う。
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