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父と母3

4.認知症と透析
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昨年4月、みるみるコロナの流行が始まり緊急事態宣言も出ましたね。田舎の父は都心に住む私や妹に田舎に来るなと言いました。母の退院は5月の連休明け。それまでに行けるようになったらと思いましたがそんなわけもなく。

母の退院日が決まったころ、父にも異変がありました。半年に1回の定期的な肺の検査でひっかかったのです。右中葉に11ミリの腫瘍があると。。。MRIなどの検査では確定診断はできないけれど、それまで2年間8ミリだったのが急激に大きくなったから5月に手術しましょうと。。。ところが父は、母の退院が目前だったこととコロナ渦で手術は嫌だったのもあり手術を8月に延期しました。医師から悪性の可能性が低いと聞いて安心したのもあるかと思います。

そんなわけで、父が肺の手術を予定しながらも、母は予定通り退院しました。施設に入るときは要介護2くらいだったのが、寝たきりになってしまい要介護5での帰宅です。食事もほぼ流動食のようなどろどろのものしか食べられなくなっていました。父が一人で大丈夫かなとそればかりが心配でしたが、田舎は厳しくて来るなとうるさくて帰省できず。。。ケアマネさんの力を借りて透析やデイサービスや訪問入浴などなど月曜から土曜まで毎日予定を組んでいただきました。

父が母の好きな食事などを用意し排泄から何から世話をし、夜中に騒がれてはなだめ、痒みがあると訴えられるとかゆみ止めを身体に塗ったり。まさに献身的な介護の結果、母はみるみる元気になり普通の少し柔らかめのご飯が食べられるようになりました!表情が険しくて感情が無かったのに、笑顔で笑ったり父と話もするようになりました。(認知はあるので同じ話になったりはします)

たったの3か月で母はすごく良くなりました。そして8月。結局コロナが落ち着くことはなく、妹が仕事を1か月休み、PCRを受けて帰省して父は入院し肺がんの手術をしました。田舎の母の透析病院では、PCRを受けて陰性でも1週間は母との接触はダメ!という、よくわけのわからないルールがあったので、妹が実家に戻っている間、母は透析病院に入院しました。

そして8日目に母が退院して帰宅すると、、、なんとまたまた険しい表情😢 入院時に拘束や眠剤使うことへの同意書を書かされてはいたのですが、母にとって入院はちっともいい事がありませんでした。

そしてさらに1週間後父も退院。残念ながら父の腫瘍は悪性で、すでにリンパへの転移がわかりました。

父は落ち込んでいましたが、何より辛かったのは、手術前より呼吸が苦しく動くのが大変で目が回り、声も出なくなってしまったという事でした。歌を歌うことが大好きでNHKのど自慢にも出たことのある父です。かすれ声で母に話しかけても聞こえず、電話でも聞き取れないほどになってしまいました。医師からは半年様子を見て治らなければあきらめるしかないと言われたようです。(幸い、3か月ほど経ったころから声は徐々に回復し、以前のようにはいかないけれど話せるようになりました。)さらに、3か月後の検査で、両肺への転移、鎖骨下リンパへの転移、小脳への転移も見つかりました。12月。父の抗がん剤内服治療が始まりました。

12月下旬、母が発熱し入院することになりました。8月の入院後、またまた時間をかけてやっと母がまた笑うようになっていたし、入院させると母が悪化することがわかっていたので苦渋の決断だったと思いますが、ちょうど父も抗がん剤の副作用が出て大変だったようなので少しホッとしたのもあるかもしれません。

母は年末から年始にかけて10日間ほど入院しました。そして退院後はまたまたリセットです。食事も食べなくなってしまった母を、笑顔で笑い話ができるようになるまで今度は2か月かかりました。

父は肺に水が溜まっていることが分かり、胸水穿刺を2週間に1回することになりました。もちろん水を抜いても、呼吸が苦しくなくなるのはほんの1日~2日ですぐに戻ってしまうそうです。

この昨年8月からの半年間が、父は一番辛かったと思います。

そんなわけで、3月末、私は田舎に帰る決断をしました。

PCR検査も受けて、結果も陰性で、さていよいよ帰省!となってところで、息子が不調に・・・そう、大学始まる前だったから~~~💦

この後の事は、以前のブログの通りです。結局私は東京にいます。

今回私も腫瘍がみつかったけれど、父の頑張りを見ていると、私も絶対にあきらめずに頑張ろうと思えます!

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