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02 否認

障害児を授かった親や、子どもが難病になってしまった場合は、ショックの後に、否認や怒りなどの感情が訪れる事が多い。

けれど私は、そのあたりの感情に支配されることはなく、すぐに病気を受け入れた。

看護師だったため、衝撃(ショック)から受容までのプロセスを知っていた。それは、頭で分かってもどうすることも出来ない感情なのだけれど、

できる限り早く、息子の病気を受け入れて、今の医学でできうる最高の治療を受けさせたいと思った。

私には、病気であることを認めたくなかったり、何故うちの息子だけがこんな事になってしまったのかという怒りなどが、ほとんどなかった。

看護師として、客観的に見るよう努めたとき、やはり息子は精神病であったし、

何故うちの息子だけが…とは、考えたことがなかった。

看護学生として学んでいたとき、多くの人に会い、ずっとずっと辛く厳しい人生を送っている人や病気がちで思うように生きられない人を知った。そうかと思うと、生活に困窮することもなく、病気になることもなく、ずっと穏やかな人もいる。生まれながらに重い障害を持っている人もいる。

20歳前後の頃、この不平等さは一体なんだろう… 重い障害のある子はなぜ生まれてきたのか… そんなことを考えていた時期があり、そこで得た結論は、

辛いことや幸せな事は、みんな平等に訪れるという人もいるけれど、そうではないのだ。人生はずっと大変なことの連続ばかりの人もいる。他者から見ると、恵まれている環境であっても、愚痴ばかりの人もいる。事故で、突然命を落とす人もいれば、助かる人もいる。

全ては「運」だ。「運命」というとドラマティックな感じがするが、そんな大層なものではなく…。となると、どんな環境であれ、どんな厳しい状況を強いられたとしても、要は心の持ちようではないか。他人と比較し羨んだり妬んだりすることほどばかばかしいことはない。

他者からどう思われようとも、「自分は幸せだな~」と思える生活を送ることができれば、それが「幸せ」なのだ。そうなると、自分の思う生活ができなくなる=幸せになれない、要因の一番大きいものは、「健康を害する」ということ。

そう。「心身ともに健康であること」これこそが、幸せであるための絶対条件。けれど、万が一「心と身体」の「身体」が健康ではない状況になってしまったとしても、「心」さえ健康であれば、乗り越えられる。

若かった私は、そう思うと、これから先のどんな困難も乗り越えられるような気がしていた。

そして、息子が精神病になった。

私は、健康であればよいと… 最悪、心さえ健康であればよいと…

そう思っていたのに、なぜその「心」が病気になってしまったのだ…

この世の中には神様がいて、私に試練を与えているのだとしたら、最悪の試練だ…

否認や怒りではなく、もはや「運」だとも考えられず。

息子の発症は、環境によるものが大きいと思っていた。これは「運」ではない。私の責任だ。

私には、否認や怒りの時期はほとんどなかったが、自分を責め続け、悲しみに支配される時期は長かった。

03 不信 

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